baiksajaの日記

目前の一秒を大切に

 インドネシア雑話(2)

 昨日の朝、雨の成田に戻って来た。今回は往きも帰りも雨に降られてしまい、本当に梅雨なのだなと思い知らされる。
 ジャカルタで、面白いニュースがあった。オーストラリアが、インドネシアの屠殺は残酷だという理由で成牛の輸出を禁止したと言う。インドネシアでは年間60万頭の成牛をオーストラリアから輸入し、2ヶ月ほどインドネシアで肥育してから、国内に散在する550か所程の屠殺場へ出荷するそうである。インドネシアの年間消費量の23%がオーストラリア産牛肉だそうである。
 何が残酷なのだか具体的には書いてないので分からないのだが、屠殺する迄が時間が掛り牛に恐怖を与えると言うのが輸出禁止の理由だと言う。僕が知る限りでは、インドネシアの屠殺は牛を1頭ずつコンベヤーに乗せて送り出し、先頭に来ると大きなフックを後足の脛骨とアキレス腱の間に打ち込んでいきなりフックを捲き上げる。すると牛はあっと言う間に後足一本で逆さ吊りになり、吃驚仰天して鳴き叫ぶ間もなく丸鋸で頸がチョン切られる。他方、例えば日本では、映像でも見た事はないが、ベルトコンベヤーに乗っている時に眉間に高圧電流を当てて即死させると聞いた事がある。これが先進国での普通の屠殺方法であるとすると、インドネシアの遣り方は、逆さ吊りにしてから丸鋸で頸を切断するのだから、確かに時間が掛るし見た目には残酷である。しかし、順番待ちの次の牛から見ればどちらも五十歩百歩、出来れば自分は勘弁して欲しい光景ではなかろうか。
 イスラム教には屠殺方法に決まりがある。以前バングラデシュの事を書いた時に触れたが、イスラム教では動物を屠ふる時には、未だ生きている中に頸動脈を切って血抜きをしなければならない。だから犠牲祭の時には、牛や山羊、ヒツジは生きたまま抑えつけられて蛮刀で頸を切られる。頸動脈から噴き出す血は、牛の場合など半端ではない。しかしそうして屠殺した動物の肉でないと、折角の肉でも食べる事は禁じられている。鳥も同様である。アラビア語で食べても良い物を「HALAL]、食べてはいけない物を「HARAM」と言い、食品には良く表示してある。昔インドネシアで、一般家庭で極く普通に使われている日本の味の素に豚由来の原料が使われているのが発覚して、味の素はHARAMであると騒がれ国中が騒然とした事があった。
 イスラム教には、日常生活について細かな規定がある。だからイスラム教には宗教の一面と、生活訓の一面が備わっていると考えた方が分かり易い。生活訓の方は、僕の考えでは何れも信徒の健康と平穏を目的としているものであって、宗教とは直接関係ない事が多い。更に言えば、生活訓がコーランに載っているのは、イスラム教が生まれた場所と時代が背景にあるのだが、その説明はまたの機会に譲ろう。
 屠殺の掟も、暑くて食べ物が腐り易い砂漠の地で、血の回った腐った肉を食べないように、新たに屠殺してしっかり血抜きをした肉しか食べられない様に定めたものと想像する。今般インドネシアではイスラム教団体が、オーストラリアが何と言おうと、コーランに則った屠殺方法で殺した牛以外の肉は食べてはならない肉である、との声明を出したそうだ。もっとも、既に捌いてある輸入肉については誰も余り目くじらを立てずに食べているから、知らなければそれで良いのであろう。この辺はイスラム教の、現実的で融通無碍な処である。コーランを読んでいても、何かを禁止する傍から例外が出て来て、例外はアラーが慈愛に溢れ何でもお見通しだからお許し下さる、と言う事になる。豚肉だって、他に食べる物がなければ、そして心から美味しいと思わなければ、食べても良いと書いてある。
 国それぞれに宗教があり文化がある。オーストラリアは、シーシェパードと名乗る、捕鯨反対と言うお題目で世界中から金集めをして儲けている凶暴な海賊を、鯨保護の名の下に庇っている甚く感情的な国である。人間である先住民、アボリジーニはついこの間まで迫害して来たと言うのに。そして牛でも羊でも、ついこの間までは自分たちもナイフで屠殺していたと言うのに。自分達の趣味と文化には、随分と押しつけがましいのである。牛の身になった事も無いから、どれぐらい恐怖なのかも知らない癖に。そして所詮は屠殺してしまうのであるから、余程目に余る事でなければ、何もそこまで自説を通して輸出禁止になどしなくても良さそうなものだと思う。そこに、何やら白人の反イスラムの臭いを感じると言ったら穿ち過ぎであろうか。