baiksajaの日記

目前の一秒を大切に

 松枝愛講演会 〜 チェ・ゲバラの足跡

 今日は松枝愛の講演会を聞きに出掛けた。松村愛の名を知っている人は殆どいないと思うが、若手の翻訳家である。彼女は「足をつかう翻訳」を標榜して、単に文章を翻訳するだけでは飽き足らず、その著作に関係する場所を歩きまわり、関係者と話をしてから翻訳をすると言う念の入った翻訳家である。彼女の翻訳は未だ、チェ・ゲバラの最初の夫人であったイルダ・ガデア著の「チェと歩んだ人生」と、チェ・ゲバラと思いを一にして革命に身を投じ、若くして戦闘に散った日系二世のボリビア人、フレディ前村の生涯を綴った「革命の侍〜チェ・ゲバラの下で戦った日系二世フレディ前村の生涯〜」の二冊である。僕は未だどちらも読んでいないので、今日は会場で売られていたフレディ前村の本を取り敢えず買って来た。
 今日の講演はスライド映写を主体にした、主にゲバラの足跡を辿る彼女の旅と、ゲバラ由来の場所や遺品の説明であった。勿論フレディ前村の兄弟も登場する。彼女は辺鄙な場所にまで足を延ばし、当時を知る地元の老人の話を聞き、粗末な記念碑や墓所を訪ね歩いている。そのスライドショーを見ているだけで、彼女が肌で感じて来た革命の背景の一端を伺い知る気がした。石油や鉱山の権益で莫大な利益を上げる米国の企業と、その企業と結託した一部の富裕層、そしてそれ以外の大部分の貧しい人民、その人民を解放しようとしたゲバラ、その思想に共鳴したフレディ。敵は自分の中庭を共産化から守ると言う大義名分の下に軍事顧問団を送り込んで自国の権益を守る米国と、その米国と結託した政権の軍隊である。ゲバラとフレディは生まれはアルゼンチンとボリビアと其々異なるが、何れも裕福な家庭に生まれ、医者になった知識人である。松枝は自分の主義主張を披歴する事無く淡々と訪ねた場所の印象や面談した人の人となりを説明するのみで、自分が翻訳した著書の背景を僕達に伝えようとしていた。そこには押しつけがましさが微塵もなく、爽やかな講演であった。
 講演を聞きながら改めて思ったのは、左翼革命も軍事政権も、時代や背景によっては必要な時があると言う事である。近年ではミャンマーの軍事政権を米国が先頭に立って常に徹底的に叩いて来た。しかしミャンマーの実体は、米国が宣伝する程単純ではない。インドネシアでもスハルトが倒れるまでは民主的とは程遠かった。事実米国は、スハルトの独裁を批判してF16の部品を出荷停止したりした。常識で考えれば無茶苦茶な横槍である。むしろ僕は、暴論かも知れないが、民衆がまともな判断力も知識も持っていない新興国で、米国が言う様な民主主義をいきなり導入すれば国が混乱するだけで何の益も無いと思う。インドネシアでもスハルトが倒れてからの10年間は、やはり民主主義は時期尚早という事件が数多起きている。それでも独立後50年経っていて、その混乱を乗り切れるだけの経済的な体力が付いていたので、その混乱期を経てインドネシア民主化は何とか離陸した。しかし軍事政権で無知な民衆を強引に引っ張る時期は必要であったと今でも思う。
 同様、共産主義社会主義は終局的には亡国の思想だと思うが、それが必要な時期もあるのだと思う。例えば中国で第二次大戦後、共産主義が政権を取らなければ、恐らくは膨大な数の犠牲者が出たのではなかろうか。共産主義であったから、何とか犠牲が最小化出来たのだと思う。反面、共産主義社会主義の限界ははっきりしている。その事は、今や地球上からは文字通りの共産主義国家や社会主義国家は消滅してしまった事からも明らかである。結局、問題はマクロで見るか、ミクロで見るかの違いではなかろうか。ミクロで見れば非民主的な軍事政権や貧富の格差の甚だしい資本主義が善である筈がないが、マクロで見れば国家の存続や富国の為にはその逆が求められると言う事であろう。そして、ミクロの視点だけでは国家は成り立たないのだが、かと言ってマクロの視点だけでは社会が歪み何処かに膿が溜まるのだと思う。
 若い頃には誰でもハシカの様に一度は憧れるチェ・ゲバラの足跡を改めて辿りながら、少々自分の足下を見直した日であった。