baiksajaの日記

目前の一秒を大切に

 異文化、異習慣、異宗教

 昨日の本ブログは凄惨な写真を載せたので、余り評判が良くない。立ち寄って後悔した読者がいたりして、こちらも余り気分良しとはしていないのだけれど、でも文化や習慣の相違を知るには一番衝撃的、且つ明快なイベントなので敢えて載せたものである。
 僕が子供の頃は東京でも、庭で鶏を飼う家は珍しくなかった。僕の家は母親が動物がそれ程得意ではなかったので鶏を飼う事はしなかったが、隣近所で鶏を飼う家は沢山あった。毎朝卵を取り、卵を産まなくなったら潰すのである。だから友人の家に遊びに行くと、時々羽根が庭に散乱していた。鶏は首から上と下が別々の神経に支配されているから、うっかりすると首のない鶏が庭を走ったりした。同じ日本でも時代が異なれば、斯くも異質な文化があったのである。
 バングラデシュで知り合ったドイツ人の奥方は日本人であった。ご亭主が取ってくる野兎の皮を剥いで肉料理を作っていた。30数年前の日本でも、もう野兎の皮を剥げる普通の主婦はいなかったので、僕はいたく感心したものである。犬を人間同様に扱うイギリス人は、平気でキツネ狩りをする。いまでこそキツネ狩りを批判する人もいるようだが、それでもイギリス人の富裕層にとってキツネ狩りはステータスシンボルであり、レクリエーションである。
 総べて白色人種は狩猟には寛容である。肉食文化であるから、動物を殺して皮を剥いで食する事に、日本人ほどの抵抗はない。その同じ白色人種が、日本人がクジラやイルカを獲る事には猛反対する。バイソンを絶滅寸前にまで追い込み、動物どころかアボリジーニやインディアンを絶滅寸前まで追い詰めた白色人種が、クジラやイルカで目の色を変える。自分たちが殺し慣れた四足や原住民なら構わないが、今まで余り慣れ親しんでいなかった海の哺乳類には理不尽に同情するのである。そんな白色人種だから、イスラムの犠牲祭には酷く批判的である。残酷だと言う。しかしそれも所詮は個人の感情で、可愛そうに分類される動物とされない動物があり、そこには何ら合理的な基準はない。あるのは感情だけである。
 世の中は矛盾だらけである。白色人種の偏見と独断も、斯くの如く矛盾に満ちている。しかし、これが文化、習慣、宗教の違いなのである。自分を基準にして物事を判断する危うさなのである。世界が平和裏に共存する為には、先ず自分の育った環境に依拠する独断と偏見を捨てて、他文化、他民族、他宗教を慮る事が初めの一歩なのだと思う。昨日の凄惨な写真を敢えて掲載したのは、そういう思いを共有する為のショック療法だと思って欲しい。それと同時に、動物を屠る事に対する個々の思いも、洋の東西、宗教によって正反対になり得る事を改めて認識して欲しいのである。