baiksajaの日記

目前の一秒を大切に

 体罰

 大阪の市立高校で、教員の体罰に耐え兼ねて高校生が自殺した事から、世間では体罰について色々な意見が飛び交っている。事件は、運動で有名な高校で、常態化していた体罰が当然の事として見逃されていたもので、OBには体罰肯定論者もいると言う。実は僕も体罰を頭から否定するものではない。動物を躾けるのと同様に、例えば言葉で言っても分からない子供には時として少し痛い想いをさせる事は必要だと思っている。しかし躾の一環であるから、そこには当然愛情とルールがあって然るべきである。例えば相手が幼児であれば、尻か手を叩く程度で留める。タバコの火を押し付ける、などと言うのは罰ではなく傷害であり虐待である。同様、小学校の時にはバケツに水を張って廊下に立たされることもあったが、やらされる方も納得しているし、やらせる方も底流に愛情がある。運動部の練習で、下手をしたら50mダッシュ、だとか、試合に負けたら全員で校庭何周ランニングだとか、効果の程はさておきその程度の体罰を僕は否定しない。合理的な理由があり、やらされる方も納得しているのなら、多少の痛い、辛いは肥やしのうちだと思っている。しかし今回の高校生の自殺事件では、聞けば30発も40発も、それも顔を張ったと言うのだからこれはもう体罰の限界を超えており、暴行である。しかも毎度の事であったらしい。そこには教師という立場を利用した加虐趣味は感じても、愛情の片鱗も感じられない。
 以前いじめについて書いた時に、言葉の不正確さに触れた事があるが、体罰についても僕は正に言葉が不適切なのだと思う。上に書いた程度の、僕の許容範囲の体罰は、指導者の方針や状況によっては何が何でも否定するものではない。時には必要な事もあるであろう。だから体罰は絶対にやってはならない、という極端な感情論には僕は組しない。しかし今回の事件の様なケースは、体罰ではなく暴行傷害であり、立派な刑事事件である。そして暴行傷害に弁解の余地などあろう筈もない。それをメディアが一括りに体罰と表現してしまうから、議論がどうもすっきりしなくなる。僕が許容する体罰については種々異論はあっても暴行傷害を擁護する意見はあろう筈もないのだが、テレビなどではその区別なしに議論するから論点が呆けてしまう。
 メディアは表現を明確に区別するべきである。体罰と暴行傷害は区別されなければならない。体罰と聞いただけでは、まさかこれ程の暴行が加えられているとは中々想像できない。僕のなかには体罰と言う言葉にはどうしても肯定的なニュアンスが含まれてしまうし、そういう日本人は少なくないと思う。線引きが難しいのは分かるが、それでも区別を明確にするべきである。新聞の見出しもテレビのヘッドラインも、「〇×高校の教師、暴行傷害」とか「〇×高校の暴行傷害事件」と書けばよい。とそれにより加害者にも、校長を初めとする周囲の教員にも自覚が芽生えるし、警察も動き易くなるのではなかろうか。
 更に思うのだが、いじめと体罰に共通しているのは、何れも学校の中での事である。学校の中の事には警察や外部の権力には干渉されたくないという風潮があり、事件が中々表面化しないのも問題である。この風潮は、そもそもは特高警察が赤狩りをした頃の事が発端なのであろうか。そしてその風潮は、代々木−日教組が受け継いで今日に至っているのであろうか。しかし戦前と異なり今の日本では思想が理由で警察に拘留される事などないのだから、もっと警察に校門を開放する事も必要であろう。子供が死に追い詰められる前に、しっかり事件を調査し、犯罪である事が立証されたら犯人を、例えそれが教師であれ生徒であれ父兄であれ、躊躇なく逮捕すると言う合意を形成する必要がある。警察も学校の中の事だからと遠慮する慣習は見直すべきである。