baiksajaの日記

目前の一秒を大切に

 今日は犠牲際

 今年は8月の雨続きで野菜が高騰して主婦の台所は大変だったようだが、枝豆と、特に今はさんまが安くて旨くて、僕には例年にも増して晩酌が楽しみな結構な秋である。
 今日はイスラムの犠牲祭、イスラム教の国では牛や山羊やラクダが生贄にされる、動物にとっては何とも難儀な日である。一方で、イスラム教徒にとっては回教正月に匹敵する、大事で待ち遠しい祭日である。犠牲祭の生贄の様子はその昔、「世界残酷物語」などと言う映画にも取り上げられた、実際に現代人にとっては相当に残酷で凄惨な儀式である。しかし8世紀からの伝統を今も守っているのだから、その昔なら当たり前の日常生活が儀式になっただけの事である。
 僕に言わせれば、死因の分からない動物の屍肉を食べて疫病が蔓延したり、腐敗した肉を食べて部族が全滅したりするリスクをなくす為に、食する動物は自らが屠殺しなければならないと言う規律を作り、同時に人間の為に屠られる動物に感謝する為に儀式が定められたものだと思う。酷熱の地であれば、当然の教えであったろう。しかも動物を締めて解体する行為は、8世紀当時には日常茶飯事の事であって決して残酷な行為であった訳ではない。
 僕の様な門外漢が能天気な事を言って、過激思想の持ち主に狙われたりすると困るのだが、およそイスラム教の最大の問題点は時代の流れに乗らない事にある。神はモーゼやノアやキリストといった諸々の預言者の流れの最後をムハンマドに託し、ムハンマドの後には預言者はいないと言い切ったから、その後に誰かが出て来てどんないい加減な布教をしようとも、クルアンの原理原則は概ね守られた。キリストが神の子に祭り上げられ、精霊などと言う訳の分からない存在まで作り上げられた挙句に、キリストやマリアの偶像に礼拝するという習慣まで出来てしまった事への反省から、神はムハンマドを最後の預言者に決めてしまったものである。
 しかし、神は勿論宇宙の創造から地球の破滅の日までの全てを掌握しているのだから、8世紀の預言者の口を借りて、当時の人間に分かるように諭された教えが21世紀にそのまま当て嵌まらない事は初めから分かっていたのだが、知恵の足りない人間は8世紀の教えをそのまま守ろうとするから無理が出る。酒や豚の飲食の禁止の事は何度も書いたから省略するけれど、最近問題になっているハラールとハラームの問題にしても同根だと思う。つまりハラールの原則は、上に書いた様に病原菌に冒された肉や腐敗した肉を食さない様に定められた規律であって、昨今のハラール認証の様に枝葉末節な事を論う物ではなかった筈である。そもそも豚ペストが撲滅された今、豚を忌み嫌う理由もないのだから、豚由来の素材をハラームにする必要はないし、消毒に使用されて人間には全く影響のない微量のアルコールを問題にする理由も全く無い筈だと僕は思う。とは言え、所詮は食べ物や服装の事だから、其処に多少の齟齬があっても文化・宗教の違いで片が付く、未だ未だ平和な話ではあるのだが、誰か勇敢な人間が出て来てイスラム教徒の頑迷な思い込みを改革してくれないものだろうか。そうすれば西側の人間にもイスラム教がもっと正しく理解され、キリスト教社会とイスラム教社会の平和共存が進化すると思うのである。