baiksajaの日記

目前の一秒を大切に

 フランスのテロ事件

 昨年末からの眩暈がいつまでもはっきりしないまま、今度はインフルエンザらしきものに罹ってしまった。早々とワクチンを射ってあったので甘くみてしまい、暫く大人しくしていれば良かったものを少し快方に向かった3日目にスクーターで出掛けてしまい、ぶり返しは前よりも悪くなるとは良く言ったもので、今は酷い目に遭っている。もう一週間、いつまでもグズグズと長引いている。今年は正月から本当に踏んだり蹴ったりで、未だ一日も元気な日の無い2015年である。
 フランスの新聞社襲撃テロ以来、欧州がキナ臭い。イスラム過激派が個人テロに走っているようで、穏やかではない。一方で欧州の右翼のイスラム排斥運動にも弾みがついてしまい、各地で反イスラムデモが起きていると言う。第二次大戦後の労働力不足を解消する為に、1950年代に元々自国領であった被植民地から労働力を補充し、60年代に入ると労働者の家族が移民として入って来て今の欧州のいびつな多民族国家が出来上がった。それ以来、下層労働者が大多数を占める移民と白人主体の富裕層・中間層との摩擦、有色人種に対する白人優越主義の人種差別、等の不協和音の歴史が始まった。しかし偏に人種差別と片付けるのは簡単だが、長年育まれた地域の伝統やモラルに突然全く異種の言語、文化、伝統、宗教が入り込んで来ればそこに拒絶反応が起きる事は有る意味自然であるとも言える。今の欧州はそんな自然の拒絶反応と、陰に潜む人種差別に喘いでいる。しかしそれは、別の見方をすれば欧州の白人の一方的なご都合主義であって、人手不足の時には無制限に労働力を招じ入れ、それが目障りになって来たので今は出て行けと圧力を掛けている、という事なのである。この欧州の現実は、日本にとっては正に他山の石である。
 日本でも移民労働者に門戸を開放しろという声が上がっている。国内労働力が不足し、その労働力不足がこれからの高齢化社会に向けて益々深刻になると思われるからである。しかし外国人や異文化と本当の意味で向き合った事の無い日本人が、当たり前のように外国人と雑居する事に本当に耐えられるであろうか。例えばフランスでは今やイスラム教徒が4割近くに達すると言うが、元々のフランス人はカトリック教徒だから、4割近くのフランス人はマグレブを主とする移民と考えられる。日本でそれほど多数の外国人が、日常は彼等の言語で喋り、日本人には馴染みの無い香料をふんだんに使って料理をし、日本人とは違ったスタイルで生活をし、地域の学校でも家庭での教育が根本から異なる子弟と日本人の子供たちが共学する日常に、本当に日本人が耐えられるであろうか。僕には外国人に免疫のない日本人が、多少の個人差や地域差はあれ、到底そんな生活に未来永劫耐えられるとは思えない。そして最も慎まなければならない事は、人手が足りないからと安易に外国人労働者に門戸を開放し、暫く経ってから、例えば50年後に、外国人は目障りだから出て行け、日本は皇祖皇宗以来倭人の国だ、などと手の平を返す事である。手前勝手な今の欧州各国の二の舞を演じる事だけは避けなければならないと思う。だから、安易に外国人労働者に門戸を開放する事には俄かに賛成し難いのである。今は辛抱して、お得意のロボットをもっともっと開発・導入すべきだと確信しているのである。
 ところで、フランスの新聞社襲撃テロが許されざる暴挙である事は論を俟たない。如何なる理由があるにせよ、暴力で、しかも人命を奪うなどという蛮行は絶対に許されない。それがアッラーの教えでもある。しかし他方で、他人の信仰や信条を諷刺する事もまた許されざる事だと僕は思う。メディアやオランドはこれを表現の自由であると言うが、自由と言うからには其処には自ずと規範があってしかるべきである。規範の無い自由は、自由と言う名の暴力にもなり得る。今回のフランスの新聞社の諷刺画を僕は見ていないが、預言者ムハンマドを題材にした諷刺画を掲載したと言うから、やはり自由の範囲を逸脱しているのだと思う。日常に冗談を言うにしても、僕たちは題材には一定の常識的な限度を設けている。例えば他人が気にしている身体的な欠点には触れない、誰もが笑える題材を選ぶ、等々である。これが影響力の強いメディアであれば尚の事、諷刺の題材には自ずと節度を設けるべきである。売れれば何を書いても良い、それが言論、表現の自由であると言うのは、僕はペンの暴力だと思う。