baiksajaの日記

目前の一秒を大切に

 外国人労働力〜労働市場の門戸開放

 日本の少子高齢化、それに起因する年金や健保の崩壊を食い止める一つの選択肢は外国人労働者に門戸を開放する事であろう。新聞などでも、日本の労働市場の開放を訴える記事が最近しばしば目に付くようになった。調度半世紀前には欧州が、旧植民地から安価で3Kを厭わない労働力を大量に取り込んだ。旧植民地の労働力であれば、言葉の問題がある程度は既に解決されていたからである。その結果、フランスにはアルジェリア、モロッコなどのアフリカから、英国にはインド、パキスタンバングラデシュなどの南西アジアから、ドイツには主にトルコから、安い労働力が大量に流入した。それでも当初は戦後復興で世界的に景気は右肩上がりであったから、移民と元々の住民との間に特段の摩擦も発生しなかった。しかし暫くする間に、移民労働者は給与も低いし言葉もそれ程出来ない、しかも教育レベルも高くないから、どうしてもスラム化してしまう。スラム化すれば元々の住民は自然と距離を置き、そこの住民と一線を画すようになる。さらに家族が移住してくれば学校などでも、それらのスラム街の子弟と自分達の子供が同じ教室で机を並べる事にも抵抗が出て来る。それらの住民の大半が偶然イスラム教徒であったから、これらの摩擦は白人のキリスト教徒とイスラム教徒との摩擦という図式に置換されるようにもなった。
 以前から何度かこのブログに書いたが、本来のイスラム教はキリスト教よりも遥かに寛容で柔軟である。そして平和主義であり、異教徒にイスラム教を押し付けはしない。歴史上、好戦的であったのは常にキリスト教であり、イスラム教はキリスト教徒やユダヤ教徒と共生する事に何の抵抗もなかった。これは議論の余地のない歴史上の事実である。テロリスト集団である極く一部のイスラム原理主義者と本来のイスラム教徒は決して混同してはならないのである。そんな好戦的で排他的なキリスト教徒の中に、戦後イスラム教徒が貧民街を作り、今や欧州では人口の10%位がこれらの移民労働者であると言われているから、白人のキリスト教徒が穏やかでいられる筈が無い。増してや景気が右肩上がりではなくなり、自分達自身の失業率が高くなるにつれ、外国人に対する反感は益々募って来る。これが移民労働者に対する焼き討ち殺戮や、暴行、果てはネオナチや最近のフランスの外国人労働者排斥運動に繫がって行く。人手が要る時には無造作に採り込んでおいて、いざ不景気になって来れば排斥運動というのは、欧州人の余りにも身勝手な振る舞いである。
 日本は島国なので、日本人は昔から外国人との共生に馴れていない。もし今、労働市場を開放して、国民の10人に1人が東アジア、南西アジア、東南アジア、あるいは中東、南米、中央アジア人となったらどうであろう。流入人口が少ない中は日本人は結構面倒見が良いかも知れない。日系ブラジル人で有名な茨城県常総市太田町などは、直接は知らないから無責任なコメントになるが、報道などで見る限りは地元の人達と移民が上手く馴染んでいるように見える。太田町の場合は日系人という特殊な要素もある。しかし実際は文化も違えば習慣も違うから、お互いに相当なストレスになっていても不思議ではない。
 異文化、異習慣の人々と一緒に暮らすという事は、例えば生活騒音とかゴミとか洗濯物とか、あるいはスーパーでの買い物のマナーや食事の臭いなど、日常のちょっとした事が毎日の事になると結構なストレスになる。子供の躾けや交通マナーなど、数え始めれば不安の種は山ほど出て来る。恐らくは凶悪犯罪も増えると覚悟しておいた方が良い。外国人が増えればイスラム原理主義のテロリストが紛れ込んで来る事も考えておかねばならない。
 年金や健保から見れば確かに外国人労働者も現役世代として制度の担い手になるが、家族が移って来れば教育や福祉などでは逆にコストアップの要因になりかねない。これらのコストが目に見えて来た時にも、日本人が果たして従前通りに彼等に友好的に、分け隔てなく接し得るか、僕は甚だ疑問である。何かが引き鉄になって外国人に対する見方が急激に変わった時に、欧州で今現在実際に起きている様な差別や排斥運動にならないであろうか。日本の環境では、先ず日本人が一般的にはそれほど宗教心が強くない事と、周辺国がイスラム教という訳でもないから、宗教上の問題が起きないだけ日本は未だ欧州よりは恵まれているかも知れない。それでも、日本よりも所得の低い国から来ている出稼ぎ労働者と、差別なく共生出来るか、よくよく自分に問い詰めてみる必要がある。
 一方では就職難と言う現実がある反面、単純労働やサービス業で人手不足が言われ始めて既に久しい。この傾向は少子高齢化が益々進む日本では、当分変わらないであろう。従い企業の目先の要求は海外からの安い労働力の移入であろうが、鎖国には慣れていても異文化には免疫のない日本人が本当に責任を持って外国人を普遍的な労働力として受け入れられるか、国民の一人一人が充分に熟慮して結論を出す必要がある。日本は欧州諸国のように、必要な時には無責任に外国から労働力を取り入れ、それが過剰になったら自分の都合だけで今度は手の平を返すように排斥運動を起こすなどと言う事を繰り返してはならないと思う。