baiksajaの日記

目前の一秒を大切に

 今日は犠牲祭

 今日はイスラム教の犠牲祭である。年に一度、動物を神様に供える日で、回教国では休日になり、人々はお互いに祝福しあう日である。イスラム教では、裕福な人は生贄を供えなければならず、且つ出来ることなら主人自らが生贄を屠ふるのが一番良いとされている。勿論他人にやって貰っても生贄の価値が下がる訳ではない。しかし、牛のような大きな動物をナイフで屠るのは非常に凄惨で、以前僕がバングラデシュで貧血を起こした話を書いたように、少なくとも僕には到底勤まらない。回教国では数日前から綺麗に飾り付けられた牛や山羊があちらこちらの家庭で見られるようになり、本番の今日は其処ら中の空き地や駐車場で何とも血生臭い儀式が執り行われるのである。もっとも流石に日本では空き地があっても自由に動物を殺してはいけないようで、日本の回教寺院は屠殺場に依頼しているようである。
 この犠牲祭の起源は旧約聖書の創世記22章にある、アブラハムイスラム教ではイブラヒム)が100歳になってやっと授かった一人息子のイサク(イスラム教ではイスマイル)を、神の命令に従って自分の手で殺して神に捧げようとする故事である。この時、イサクは殊勝にも神の命令であるなら父親の手にかかりましょうと、自ら進んで後ろ手に縛られるのである。これは実は神がアブラハムの信仰心を試していたのである。すると悪魔(サタン)がアブラハムの耳元で「自分の子供を殺すなどとんでもない」と囁く。それでも神への信仰に忠誠を誓うアブラハムは悪魔の囁きには耳を貸さず、神の命令に従って迷わず息子を殺そうとする。正にその寸前に、神から遣わされた天使がアブラハムを押し止め、イサクは命拾いをする。更に神はイサクの身代わりに雄羊を遣わしたので、アブラハムはこの雄羊を屠ふってイサクに代えて神に供えたのであった。レンブラントが描いたこの場面の絵を見ると、アブラハムは正にバングラデシュで僕が見た牛がされた様に、イサクの喉を押し広げて今にも掻き切らんとしている。
 ユダヤ教キリスト教では、現在この故事がどう扱われているか知らないが、イスラム教ではイスラム教徒一人一人のアッラーに対する信仰心の証として自分の息子に代わって生贄を捧げる習慣が、未だに犠牲祭として連綿と続いているのである。そして、これはユダヤ教キリスト教イスラム教で共通だと思うが、神はアブラハムの信仰心が揺るぎない事を確認したうえで地球をアブラハムの子孫で満たし、他の民族は悉くアブラハムの子孫から祝福を得る事になると約したのである。ところが残念ながらアブラハムのDNAはユダヤ人やアラブ人のようなセム族の人に受け継がれているので、アジア人やアングロサクソン、ラテンには関係がない。混血しているのなら話は別になるが、そうでない限りは地球上の人類はセム族に祝福されないと幸せになれない事になる。別に僕はそれでも構わないが、圧倒的にキリスト教徒の多いアングロサクソンやラテンの人々、或いは現代のイスラエルを牛耳っている白系ユダヤ人はこの故事を如何捌いているのか、個人的には興味津々である。
 イスラム教では生贄にされる動物はラクダ、牛、山羊、羊の何れかと定められている。そして、ラクダや牛のような大きな動物は一頭を7人で分ける。他方山羊や羊は一人一頭である。一人とか七人と言うのは、お金を出して買う人が一人と言う単位であって、全ての人間一人一人と言う事ではない。つまり一家の主人が生贄を買うだけの甲斐性があるなら、彼が自分の家族や使用人、或いは近隣の貧しい人達を代表して山羊、羊なら一頭、ラクダや牛なら他の人と一緒に7人で一頭買って、神への責任を果たす訳である。しかしもっと裕福な家ならば、家族一人一人が其々その責任を果たす事は一向に構わない。
 イスラム教はこの件一事でも随分と細かく決まりを作っている。上に書いた一頭当たりの人数の事もそうだが、動物の年齢についてもラクダは5歳以上、牛は2歳以上、山羊は1歳以上、羊は6ヶ月以上でなければならないとし、なるべく雄とするように定めている。また障害のある動物についても、どういう障害なら良いがどういう障害は生贄に適さない、だとか妊娠中の動物は妊娠している事が分かっていれば生贄としない、などと言う。そのくせ他に選択肢がない場合は、全てに例外が認められるのである。正に融通無碍の真骨頂であり、アッラーは人間の弱さや世間が思い通りに行かない事を全てお見通しだ、と言う事になる。
 何れにしても、今日はイスラム教徒にとっては大変お目出度い日である。もし周囲にイスラム教の人がいるなら「お目でとう(イードムバラクインドネシア語ならスラマッ・ハリラヤ)」と声を掛ければ親近感が増す事請け合いである。