baiksajaの日記

目前の一秒を大切に

 「音楽と社会」

 日本に戻ってから咳が酷く、夜になるとまるで喘息に罹ったかと怖くなるほどである。そんなだからなるべくゆっくりしていたいのだが、水曜日のジャカルタに行く飛行機がどうしても取れない。僕の持っている切符は飛行機会社が変えられないので、仕方なく明日の飛行機で発つ事になった。体調の悪い時に限って、間の悪いものである。明日もう一日当てにしていたのが消えてしまったので、連休前に片付けなければならない仕事を少しでも片付けようと、今日も結構忙しい一日であった。
 とは言いながらも、読みかけだった「音楽と社会」という少し古い本を読み終えた。この本はクラシック・ファンなら誰でも知っているダニエル・バレンボイムというピアニストであり指揮者であるユダヤ人と、エドワード・サイードという文学者であるパレスチナ人の対談を、カーネギーホールの芸術顧問で、カーネギーホールトークのホストでもあったグゼリミアンが一冊に纏めた本である。この二人はロンドンで偶然出会ってから極めて親しくなり、2003年にサイード白血病で死ぬまでの10年間は、多忙を極めて世界中を飛び回っていた二人が、同じ場所に居る時は必ず一度は会うという関係であったと言う。
 サイードエルサレムに生まれ、その後エジプトに移住し、15歳で米国に移住した。しかし若い頃は米国文化に馴染めずに、常にパレスチナ人である自分を自覚して非常な苦労をしたそうである。音楽に造詣が深く、音楽に関する著書が沢山出版されているようだが、残念ながら浅学の僕は未だ読んだ事がない。その生い立ちからは珍しい、キリスト教徒である。サイードが死んだ時バレンボイムは「パレスチナ人は最大の擁護者を失い、イスラエル人は公正で極めて人間的な相手を失い、自分は心の友を失った」と嘆いたそうである。
 バレンボイムはアルゼンチンに生まれ、戦後建国直後のイスラエルに移住した。子供の頃からピアノが上手で、16歳だった1958年にはトスカニーニにベルリンでのベルリンフィルとの協演に誘われたが、父親がいくら何でもユダヤ人が戦後間もないベルリンで演奏は出来ないと丁重に断ったと言うエピソードがある。
 更に下って、2001年にエルサレムベルリン国立歌劇場管弦楽団の演奏会を振り、アンコールでワグナーの曲を戦後初めてイスラエル国内で演奏した事でも有名である。この時は日本の新聞にも随分記事が出た程で、一部のイスラエル人にとっては許し難い暴挙であった反面、会場にいた大方のイスラエル人は拍手喝采したと言う。何故それほどの事件だったかと言えば、ワグナーはナチが政治的に利用した事で有名な作曲家で、且つワグナー自身も反ユダヤ主義をラディカルに文章にしていたからである。ナチはユダヤ人をガス室に送り込む時にワグナーの「マイスタージンガー」を流したというから、ユダヤ人にとっては口では言い表せないほどの憎くきワグナーだと言うのも想像に難くない。いわばホロコーストのバックボーンみたいな作曲家だった訳である。ところがバレンボイムに言わせれば、確かに文章ではワグナーは先鋭な反ユダヤ主義者であったが、音楽やオペラでは決してそんな事はない、ワグナーの音楽までをも反ユダヤに仕立て上げたのはナチであって、ワグナーの本意ではなかった。だからバレンボイムとしては、ワグナーの暗いイメージを一掃して、その素晴らしい音楽をイスラエル人に聴かせたかったのであろうが、結果は大方の聴衆の反応とは裏腹にその後かなりの間イスラエルで物議を醸してしまったようである。
 反面、1990年代にバレンボイムベルリン国立歌劇場音楽監督になった時にはドイツ側から、ユダヤ人にベルリン歌劇場の音楽監督は相応しくないと槍玉に挙げられ、途中一時職を離れた時期があったと言う。ホロコーストは半世紀程度の短い期間では到底癒やしきれない深い傷を、イスラエルのみならずドイツにも残したようである。しかしそういう歴史を乗り越えて、オーストリア・ドイツ音楽の神髄を少しでも人々に広めようとするバレンボイムの勇気と寛容な人間性には心惹かれる。同時に思う事は多々あるであろうサイードもまた理性的で、今やパレスチナ人にとっては天敵のようなイスラエル人と無二の親友になってしまう心の寛さを持っている。
 僕はこの本で、もっとパレスチナイスラエルの問題にも触れるのかと期待していたのだが、残念ながらそれは期待外れであった。サイードが少し触れる部分もあるが、やはりお互いストレートに話し合える話題としては余りにも生々しく、余りにも重いのであろう。しかし博学で繊細な二人が、音楽に限らず哲学や文学など色々な分野について奔放に語り合う言葉の行間から、刺激的な教養人である二人の生身が迸り出てくる。何れ読み返したい本の一つである。