baiksajaの日記

目前の一秒を大切に

 内藤正典著「イスラームから世界を見る」

 内藤正典の「イスラームから世界を見る」を読んだ。内藤正典は当人はムスリムではないそうだが、非常にムスリムを良く、しかも公平に理解している。この人がもしムスリムだったらとても手前味噌に聞こえてしまうであろう事を、ノン・ムスリムだからこそ説得力を持って公平に論じている。
 この人は、単にイスラム教を良く理解しているだけではなく、特に欧州でのキリスト教社会とムスリムの移民社会の軋轢に造詣が深く、日ごろ欧米発信のキリスト教徒の目を通して見る偏ったイスラム教徒像に毒されている日本のメディアのニュースに公平な切り口を与えてくれる。このブログの読者であれば既にご存知のように、僕もムスリムの良き理解者として、世界の五分の一から四分の一の人口を抱えるイスラム教徒に対するキリスト教社会の、特に2001年以降の偏見を日々苦々しく思っている。それだけに宗教には大らかな日本でですら、日頃から誤ったムスリム像が氾濫している事に少なからず憤慨しているのだが、そんな日頃の鬱憤を晴らしてくれるこの人の本は、僕の愛読書であると同時に常に何かしら新しい事実に目を開かせてくれるのである。
 この本の中に、今回も面白い記述があった。ユダヤ人の国家であるイスラエルは今はムスリムを目の敵にしているが、それは単にイスラエルパレスチナの地にできたからに過ぎず、それ以前はムスリムユダヤ人は平和に共存していた、ユダヤ人を差別し、忌み嫌い、ホロコーストまで起こしたのは実はキリスト教社会であった、と言う件である。歴史上は正にその通りで、今のパレスチナの様にユダヤ人とムスリムがいがみ合うと言う歴史は第二次世界大戦まではなかったのである。そう思って考えれば、やはりイスラエルパレスチナの地に強引に建国した英国を初めとする西側諸国が今のパレスチナ問題の根源を作ったと言える訳である。
 更に内藤は言う。近代までの欧州の歴史は、教皇を頂点とする教会の支配に対する抗争の歴史であり、近代に到りやっと政教分離を成し遂げて教会支配からの自由を勝ち取った。それに反して、イスラム教では日々の生活から民事、刑事の法律に到るまでがアラーの言葉として下されているので、政教分離はあり得ない。そういうイスラム教は近代欧州の市民には想像の埒外と言う。確かに女性蔑視の象徴として欧州では国によっては法律でまで公の場での着用を禁止しているベールも、ムスリムの女性は決して嫌がって着用しているわけではない。別に男が強要している訳でもないから、余計なお世話なのである。しかもそんな欧州の国々も、修道女の服装には一切口は出さないのだから、これはやはりイスラム教に対する差別であると僕は思う。
 更に思う。イスラム教では7世紀初頭に現れた預言者ムハンマドが最後の預言者とされている。それ以前に出現したノア、モーゼ、キリストなど、ユダヤ教キリスト教預言者イスラム教でもそのまま預言者とされているのだが、ムハンマドの後には預言者はいない。そこにイスラム教が誤解される要因が多々あると思うのである。7世紀の砂漠のベドウィンの生活に則したアラビア語の神の言葉は、原則的な部分はともかく、現代では色々と文字通り解釈するには無理が生ずる事が沢山ある。ところがイスラム教の聖典はクルアンと言う、預言者の言葉ではなく預言者の口を借りて出て来た神の言葉そのものだから、何人と雖もそこにある言葉には一切触れ得ない。14世紀もの間、一切の脚色や編集もなしに受け継がれてきたクルアンは大したものだが、反面少なくとも表層の部分にはそのまま現代に当て嵌めるには無理がある事が少なからずあると僕は思う。こんな事を書くとクルアンを冒涜したとファナティックなムスリムに怒られるかも知れないが、真にイスラム教を理解する上では間違いなく時代錯誤の枝葉末節が混在していると思う。神様、偉そうを言ってごめんなさい。
 何れにしても、イスラム教徒とテロリストは同義ではなく、イスラム教はキリスト教と同等以上に平和を愛する宗教であり、政教分離世俗主義になり切れないので文化的には西欧文化の中では異様に感じられる事も少なからずあるが、その本質さえ理解すれば全く違和感なく共存が可能な宗教である事は間違いない。これは歴史的にもイスラム教を掲げる帝国が、ユダヤ教キリスト教、〇〇正教を迫害した事はない事からも明らかである。内藤正典の本著も、ムスリムを理解する上では分かり易く公平に書かれている読み易い本と言える。