baiksajaの日記

目前の一秒を大切に

 東チモールのこと

 東チモールのグスマン首相が一昨日から来日している。東チモールと言うのは、インドネシアの東部に楔が打ち込まれた様な形で分離・独立した21世紀に最初に出来た国である。正式には東チモール民主共和国と言う。
 チモールはチモール島をほぼ真ん中から東西に分断した形から成っており、東はポルトガルの植民地、西はオランダの植民地であった。西チモールはインドネシア独立でオランダが撤退したのに伴いインドネシア編入されたが、東はその後もポルトガルの植民地であった。ところが1973年にポルトガル本国でクーデターが起き、遠隔地の植民地経営が疎かになったのを機に1975年にフレテリンと言う名の独立革命戦線が組織され、俄に独立運動が活発になった。しかしインドネシアスマトラからパプア・ニューギニアに及ぶ広大な自国領に楔を打ち込まれるのを好まず、1976年にスハルトが武力侵攻して東チモール併合を宣言した。当時は米国がベトナムから駆逐され、南アジア一帯での共産主義の台頭が懸念されていた時期だったので、世界各国からも格段の異論は出ずその後はインドネシアの一部となっていた。
 しかしインドネシアに併合された後も、独立運動は執拗に続けられていた。その為インドネシア国軍にとってはスマトラ北部のアチェと並び、東チモールの治安維持が常に最も危険な任務となっていた。逆にこの二地域の何れかで野戦軍の司令官を務めて初めて国軍兵士の掌握が可能になるとも言われ、国軍幹部への登竜門でもあった。実際この二地域で流された国軍兵士の血は膨大なものであり、その激戦地で共に勇敢に戦った経歴のない将軍には下士官や兵士の人望が集まらなかった。2014年のインドネシア大統領選挙に立候補が噂されているプラボウォ元准将も以前東チモールの国軍司令官としてディリに駐屯しており、その際に武装独立闘争組織の捕虜となり、1週間生き埋めにされた挙句に去勢されて解放されたと言われている。プラボウォはスハルトの次女の娘婿であるので去勢の話は噂の域を出ないが、インドネシア人は誰でもそう信じており、また身体付きや殆ど髭が無い顔などから噂は事実かも知れないと伺わせるものがある。一方、現大統領のユドヨノは野戦軍司令官の経験がないので、未だに国軍の支持、掌握が弱いと言われている。
 グスマンは僕が初めてインドネシアに赴任した頃はファリンテルと言う名の武装闘争組織のリーダーで、過激な独立運動の闘士としてインドネシア政府が眼の敵にして追いまわしていた。或る時などは、治安部隊に突然アジトを急襲されて、裏のトイレの窓から脱出して間一髪逃げおおせたりと、寺田屋騒動の桂小五郎顔負けの逸話も残っている。ポルトガル人との混血なので西欧的な精悍な顔つきであり、元々新聞記者と言うインテリでもあったから、東チモールでの人気は絶大なものがあった。とにかく官憲の手から巧みに逃げ回って独立運動を続けていたが、結局1992年に逮捕され、最初は終身刑、その後禁固20年に減刑されて服役した。
 それから程なく、今度はスハルト政権が倒れ、ハビビ副大統領が大統領になると東チモールの独立を容認する政策に方向転換された。そのため独立闘争は公然の運動となったので、それからは独立派と反独立派が血で血を洗う争いとなり、駐留国軍も反独立派にテコ入れしていたと思われるが、三つ巴の内戦状態になってしまった。独立派は元々の東チモール人で宗主国ポルトガルに倣ってカトリック教徒、一方反独立派の多くは併合後に他所から移住して来たインドネシア人でありイスラム教徒だから、宗教戦争の様相でもあった。更に西チモールにも一部東チモールの飛び地があり、こちらの武力衝突も凄惨なものであった。西チモールのインドネシア領には数十万人規模で難民が逃げて来、難民キャンプが幾つも出来た。思想・信条が異なる住民同士が武器を持って争い出すと国軍や警察でも抑え切れない。混乱は阿鼻を極めた。翌年にインドネシアに残るか独立するかの住民投票が実施され、圧倒的多数で独立が選択された。この住民投票をピークに暴力事件は下火となり、更にインドネシア国軍が撤退して代わりに東チモールでの権益を狙うオーストラリアが中心となった国連軍が駐留するに到り、やっと平穏が戻った。
 この時我が自衛隊PKOとして2002年の3月からやって来た。僕が首都ディリを訪問したのは調度この時である。僕のパスポートには、UNCTAET(国連東チモール暫定統治)と言う貴重なスタンプが残っている。その時の自衛隊の事は以前に書いたので興味があればそちらを参照願いたい。当時は既に領海内に膨大な量の天然ガスがある事は確認されており、オーストラリアが狙っていたのもこのガスなのだが、未だ開発には全く手が付けられておらず産業と言えばコーヒー栽培ぐらいしかなかった。首都と雖もまともなホテルは殆どなく、しかもその限られた粗末なホテルは国連やオーストラリア政府の関係者が借り切ってしまっていたので、僕はカンボジア辺りから曳航されて来た船のホテルに泊まった。揺れる事を除けば、陸上のホテルよりも船のホテルの方が余程立派であった。
 街には国連関係の車意外はバイクも自動車も殆ど走っていない。前にも書いたが、一般の車はそもそもナンバープレートを付けていなかった。車は少ないし産業がないから、公害は皆無と言える。空はどこまでも青く、海はどこまでも澄んでいた。ただ主要道路しか舗装されていないので、街は何だか赤土で埃っぽかった。そして、弾痕の残る建物や破壊された建物、焼かれた建物の残骸がそこら中に残っていた。ディリ郊外の海岸沿いの崖の上には、大きなキリスト像自由の女神の様に海を向いて立っていた。今でも江の島のタワーを遠望すると、東チモールキリスト像を思い出す。
 公用語ポルトガル語とチモール語だったと思うが、実際にはインドネシア語が日常の言葉であったから僕には外国と言う感慨はなかった。人々は素朴で貧しい生活をしていた。魚売りの棒手振りが、竹棒の前後に10匹ぐらいづつ魚を一括りにして行商していた。一匹20円として、全部売れても400円程度にしかならない。そのレベルの生活である。正規の通貨は米ドルであったが、未だインドネシアのルピアも普通に流通していた。飛行機はバリ島のデンパサールから一日一往復程度しかなかったように思う。飛行場にはトタン葺の平屋の掘立小屋に税関があるだけで、後は何もない原っぱの趣であった。掘立小屋ではウィンドエアコンが何台も動いていたが、余り効果が上がっている様には思われなかった。乗客は殆どが白人であった。
 グスマンは2002年の大統領選挙で初代大統領に就任した。2007年の大統領選挙では立候補せずに、同じく独立を共に闘ったラモス=ホルタが二代目大統領に就き、グスマンは首相に納まった。ラモス=ホルタは独立の闘士とは言え、ずっとスウェーデンか何処かに亡命していてファリンテルの対外スポークスマンであったので、国民の人気度ではグスマンとは大きな開きがある。もっとも、ノーベル平和賞を受賞したのはラモス=ホルタであった。
 先日行われた第三代大統領選ではラモス=ホルタは得票率が届かず落選した。グスマンが推す候補ともう一名との間で来月16日に行われる決選投票次第で次の大統領が選出される。この10年間で東チモールがどの様に発展しているか想像も出来ないが、グスマンが来日した記事を見て、昔の事を懐かしく想い出した。尚、グスマンはポルトガル語でGUSMAOと表記する。だからインドネシア人の多くはグスマオと発音する。勿論ニュースなどでは正しく呼ばれているが、インドネシア語ではどこから読んでもグスマオだから、これは致し方が無い。