baiksajaの日記

目前の一秒を大切に

 プロコフィエフ短編集

 ロシアの作曲家、プロコフィエフ短編集を読んだ。プロコフィエフと言えば、小学校の音楽の授業で聴いた交響的物語「ピーターと狼」が直ぐに思い出される。「タンターラタッタッタッ、タッタッタッタッ....ラーリラーリラーラ....」と言う主題は誰でも知っているだろう。この人が実は若い頃に短編小説を書いていたのが、極く最近になり分かったのだと言う。日本では昨年、翻訳出版されている。我が家にはこれから読む予定の本が既に沢山積んであるのだが、またアマゾンでこの本を買ってしまった。ちょっと目を通したら想像以上に面白く、他の本を尻目にあっと言う間に読んでしまった。
 短編小説は、それぞれに独特のテンポと、時には諧謔的な、時にはSF的なストーリーが展開している。自分が心酔しているショーペンハウェルを変人に仕立あげて小説中に実名で登場させるような悪戯もしている。そんな短編小説が、未完も含めて10編ほどありそれはそれで面白いのだが、一番面白かったのは彼がアメリカに渡る途中で二ヶ月間日本に滞在した頃を抜粋した日記である。1917年に祖国ロシアで勃発した共産革命を逃れて、亡命ではないのだがそれから約20年に渡る海外生活の初っ端に日本に滞在しているのである。日露戦争の直後なのだが、彼は日本に随分と親しみを感じたようである。美しく、洒落た日本という描写が何度か出て来る。特に日本の田畑には殊の外良い印象を持ったようで、彼の眼にはおよそヨーロッパでは考えられない愛情を込めて丹念に耕された田畑と映ったようである。
 彼が日本に立ち寄った1918年には本国のボルシェビキチェコ軍の反乱を抑えきれずに混乱が続きルーブルが下落してしまった為に、大分懐具合が淋しくなってしまった。その為に生活の糧を得る為に東京と横浜で三度のピアノ・コンサートを開いている。しかし日本の聴衆は洋装でお洒落をし、礼儀正しく聴いているが全く西洋音楽を理解していないと喝破している。だからピアノの練習にも余り身が入らなかったようである。その上、日本人は安い席に集中していると嘆いている。そのお陰で、目論見ほどの収入にはならなかったようである。どうも我が国のこの伝統は、クラシック音楽については極く一部のブランド演奏家を例外として、未だに脈々と息づいているように思われる。
 徳川頼貞侯爵からの作曲依頼の話もあり、同じく懐具合の関係で期待もしたようであるが、結局この依頼は実現しなかった。プロコフィエフが作曲料を少し吹っ掛け過ぎたせいかもしれない。実現していれば、日本的な情緒を取り入れた面白い作品になっていたかも知れないと、ちょっと残念である。その時の話し合いで接した徳川侯爵は「まったくもってヨーロッパ的な人物で、じつに魅力的で飾り気がなく、東洋をまるで感じなかった」だったそうな。
 僅か2ヶ月間の滞在ながら、東京、横浜、京都、大阪、奈良、軽井沢、箱根を見て回り、芸者が気に入り、良い印象を持ったようである。「彫刻を施した、左右に開く壁」という表現が何度か出て来るのだが、これは襖の事であろうか。音楽でしか接し得なかった作曲家の人間性が垣間見えると同時に、およそ100年前の日本を当時のロシア人の目を通して見る事が出来る、非常に面白い本であった。