baiksajaの日記

目前の一秒を大切に

 死刑執行

 今日は1年8ヶ月ぶりに3人の死刑囚に対して刑が執行されたそうである。暗いニュースではあるが、ここのところ単なる個人的な思想を理由に、公然且つ一方的に死刑の執行命令という法務大臣の職責を忌避する大臣が続いていたので、当たり前の事とは言え小川敏夫の法律制度を擁護せんとする勇を労いたい。しかし他方で、こういうニュースに接する度に、日本も早く死刑制度を廃止したら良いのに、という思いを新たにする。理屈抜きで後味の悪いニュースだからである。
 死刑は、今の日本の法律では避けて通る事は出来ない。ましてや今は一般市民が裁判員として、死刑を宣告しなければならなくなる事もある時代である。であれば、やはり国民的な議論を通して死刑制度を見直す時期に来ていると思う。死刑反対の理屈として、アムネスティ・インターナショナル日本が主張するような「死刑囚の生きる権利を奪う」と言うのがあるが、これは僕には全く受け入れられない。そんな意見が通ってしまったら、被害者の遺族感情は如何なってしまうのであろう。日本で死刑を宣告される犯罪者は、普通は残忍な方法で二人以上の人間を殺害している。つまり、死刑囚自身が既に二人以上の他人の生きる権利を一方的に奪っている事になる。そんな人間の生きる権利を思料する必要はないというのが僕の意見である。更に、人権団体と称する市民団体も強硬に抗議している様であるが、一般に市民団体と称する訳の分からない団体は、大概思想的に偏向しているからまともに取り合う必要はない。日弁連も抗議しているが、その真意を僕は知らない。弁護士は力量も志操も玉石混交だから、色々な意見が混在しているものであろう。何れにしても、極端な意見は無視するとして、やはり国民一人々々が一度立ち止まって考えても良い時が来たと常々思うのである。
 日本では実際には、再審請求の可能性がある場合、判決は確定していても多少なりとも冤罪の可能性の拭いきれない場合、或いは責任能力に一抹の疑義がある場合などは、公然とは言われないが実際には死刑は執行されていないという。法相が「最後の砦」となって死刑執行を実質延期できるし、そもそも法務官僚は多少なりとも疑義の余地のある事案は法相の決済を仰がないと聞く。現実の運用でそういう手加減が加えられている事自体が、やはり制度的に問題を孕んでいると言えるのではなかろうか。また、刑罰として極めて残虐である事は否めない。だから繰り返しこのブログで書いているように、刑を求刑し、宣告し、執行し、立ち合い、検死する人達が本当に気の毒であると思う。小川敏夫にしても、捺印した時の心中や如何ばかりと同情する。
 元々法務省内には、千葉景子元法相が立ち上げた死刑制度の存廃を考える勉強会が出来ていた。しかし、平岡秀夫のように、この勉強会を逃げ口上に本来の職責を忌避する大臣が出来したので、小川敏夫はまずこの勉強会を廃止する事にしたようである。しかし、勉強会と言うのがそもそも間違っている。この問題はたんなる議論を通してでは、増してや勉強会では、絶対に結論が出ない。意見百出すれど、纏まる筈がない。従い先ず政治が方向を決め、それについての国民的コンセンサスを得るという手順が求められる。その際には特に被害者の遺族感情に配慮が必要である。同時に類似犯罪の抑止効果も極めて重要である。従い、相当に厳しい罰則でなければ意味がない。僕は何時も同じ事を言うが、例外なく「恩赦なし、刑期の短縮なし、正真正銘の終身刑、或いは有期刑の累積で百数十年の懲役」を死刑の代替とし、これでも未だ手緩ければ更に、面会謝絶だとか差し入れ厳禁だとか独房だとか重労働だとか、より厳しい条件を付帯するのが名案だと思うのであるが、如何であろう。