baiksajaの日記

目前の一秒を大切に

 スドノ・サリムの訃報

 今回の出張ではインドネシアでは特に特筆すべきニュースはなかった。乾期にも拘わらず空は連日どんよりと雲が垂れ込め、公害なのか地球の変動なのかは判然としないが、季節特有の気候は明らかに変化してしまった。道路は合いも変わらぬ大渋滞で、もうジャカルタでの移動時間を事前に推測する事は難しい。
 そんなマンネリ化したジャカルタ来訪でただ一つ変わったニュースと言えば、スドノ・サリム、中国名林紹良(リム・シュウリョン)が、僕がジャカルタに到着した日にシンガポールで96歳の生涯を終えた事がある。この人は32年に及ぶスハルト政権を財界側から支え、スハルト時代の著しい経済発展を推進した華僑である。スハルトの盟友として名を馳せ、スハルトの莫大な政治資金を陰で賄ってきた一人である。その見返りに一代で大コングロマリットを築き上げた伝説的な人物でもある。ゴルゴ13にも登場した事がある。スハルトが去り、また林紹良が去り、スハルト時代のオルデ・バルを支えた人物が一人、また一人と舞台を下りて行く。
 林紹良は第二次大戦直前の1936年に大陸から移住した初代華僑で、当初は中部ジャワのスマランでコーヒー豆や日用品を扱う商人として生業を立てながら、卓抜した商才と勤勉さで頭角を現し、当時は未だ一若手将校に過ぎなかったスハルトと巡り会ってお互いに手を取り合ってインドネシアの発展に大きな貢献をした。僕がインドネシアに来たときには既に実質引退していてグループの実権は三男のアンソニーに渡っていたが、ご当人は未だ未だ前線にしばしば姿を現していた。艶福家としてつとに有名で、常に周囲には若い美人が何人か侍っていたものである。僕が初めてアンソニーを介して紹介された時には、それでも未だ矍鑠としていて、いとも丁寧に応対して貰って恐縮したものである。
 インドネシアでサリム・グループと言えば知らぬ人はいない。日産自動車の合弁パートナーであり、インドネシア有数のセメント会社やインドネシア最大の製粉工場を持ち、同じく最大の食品メーカーであるインドフードは例えばカップヌードルのシェアでは60%超を抑えている。小売業でもメキメキと頭角を現していて、今ではグループのコンビニであるインドマレットは何処ででも目にする程店舗数が増えている。砂糖産業でも15年前の失地回復を目指して胎動を続けているから、遠からずNo.1に復帰するかも知れない。
 サリムグループは、創業者のスドノがスハルトの盟友であった事が災いして、1997年のアジア通貨危機の際には華僑の象徴として反華僑派の集中攻撃を浴びてしまい、グループは相当毀損してしまった。アンソニー自身もその生命が危険な状況にまで追い込まれ、流石に当時はアンソニーに会うのはシンガポールだけであった。そして一時は、実にグループ内の108社が政府の所有に移転され、更に30数社が別途政府に担保として押さえられるというグループ消滅の大ピンチに陥ったのである。しかしアンソニーの卓抜な経営手腕と政治センスにより、大出血をしながらもその危機を何とか乗り切った。その後徐々に立て直しが進んで、現在では一旦は手放した民間最大の銀行であるBCAでも既に筆頭株主に返り咲いているし、フィリピンやインド、中国などでも手広く投資を続けていて世界的にも一目置かれる多国籍企業群として復活している。
 或る時アンソニーと二人で東京の帝国ホテルに泊まった事がある。二人で、何れもアンソニーの大好物である、神田のやぶ蕎麦の天玉付きせいろを昼に、夜は京橋のざくろで日本酒としゃぶしゃぶに舌鼓を打った後の事である。「貴方は朝から深夜まで仕事ばかりしているが一体何が趣味なのですか」と尋ねたら、ニヤリとして「自分の趣味は働く事である」と言う答えが返ってきた。何処か悪戯っぽくて愛らしいのだが、実際は仕事の虫としか言いようのないアンソニーなのである。林紹良の精神はその三男に良く承継がれている。そして、資産8000億ドルと言われる、インドネシアの超大物が一人また斃れた。