baiksajaの日記

目前の一秒を大切に

 教育と体罰

 大阪の市立高校生が、体罰を苦にして自殺してからとみに体罰論議が喧しい。其処彼処で体罰調査が行われ、やれどこそこの学校で体罰があった、何とか大学のクラブで体罰が行われていた、と一々報道されるこの頃である。極め付きは女子柔道のナショナルチームのメンバー15人が連名で監督の暴力を訴えた事件である。15人の名前は未だに公表されていないが、オリンピック代表だった選手も含まれていると聞くと、複雑な思いである。そこで色々と考えさせられるのだが、僕は問題の本質は体罰ではないように思う。
 体罰自体は、僕は完全には否定しない。日本には「愛の鞭」という言葉があるように、勿論鞭は必ずしも物理的な鞭とは限らないのだけれども、少なくともこの言葉は身体的な痛みを与える事も包含している。昔から人間に何かを教え込むとか、精神を鍛える時などには、時には少し乱暴な事をする方が効果が出たのだと思う。以前にも書いたが、体罰と言う言葉には程度問題ではあるが、肯定的な意味も含まれていると僕は今でも思う。何が何でも体罰は怪しからんと言うのは少し乱暴だと思うのである。かと言って、大阪の市立高校生の様に顔面を30発も40発も殴られたなどと言うのは、幾らその場の状況が分からないとは言いながら、それはもう体罰の域を超えた暴行である。旧日本軍の新兵いびりではあるまいし、そんなサディスティックな暴行は体罰と呼ぶべきではない。
 体罰も決して悪くない卑近な例では、僕が子供の頃、箸が上手に持てず握り箸のような持ち方をしていたらしい。日頃両親には口うるさく注意をされていたのだろうが、未だ小さい時の事だったからその辺りの記憶はない。ある日の夕食の時の事、また何時ものように父親に注意されたのだが、僕は相変わらずあまり真剣に聞いていなかったのだと思う。そもそも箸のようなものは、一旦おかしな癖がついてしまうと幾ら口で言われても、そうそう簡単に矯正出来るものではない。ところがその日の父親は普段と違っていた。僕がまた変な持ち方をすると手を叩かれた。箸が飛ぶほど叩かれた。仕方がないから何とか正しい持ち方をしようと努力はするのだが、いざ食べる段になると普段慣れない持ち方では食べ物が掴めないからどうしてもまた変な持ち方に戻ってしまう。するとまた叩かれる。とうとう僕は泣き出して、「もうご飯なんかいらない」と不貞腐れたところ、父親は「要らなければ食べるな」と珍しく強硬で、母親も一向に助け船を出してくれない。結局その晩は本当に一食抜く羽目になった。当時僕は5歳ぐらいだったと思うが、この辺の推移は今でも鮮明に覚えている。空きっ腹を抱えて布団に入り寝入ったのだが、翌朝はもう腹ペコで腹ペコで、半死半生であったろう。また食事を抜くなど思いもよらぬから、必死に正しい持ち方で食べ物と格闘しながら、何とか朝ご飯を食べ終えた。すると両親から箸の持ち方が美しくなったと酷く誉められた。仕方がないから、それからも箸の持ち方に気を遣ったので、直に正しい持ち方が身に付く事になった。言ってみればたったこの一晩のお蔭で、今の僕は箸だけは上手に持て、器用に使えるのである。これは明らかに体罰のお蔭であり、僕は父親に感謝している。
 それでは何が問題の本質かと言えば、結局は体罰の底流に愛情があるかないかだと思うのである。この子は未だ伸びる、何とか伸ばしてやりたい、と思って時には少し痛い思いもさせる訳だが、愛情があれば生徒の顔面を何十発も張ったり出来る筈がない。問題になるケースでは、教師や指導者の側に愛情が欠けているとか、或いは愛情が薄いのではなかろうか。サディスティックに権威を振り回して、ただ暴力を振るわれれば誰も我慢ならなくなるか、或いは精神的に参ってしまう。
 一方で、女子柔道の選手のように半分職業のように柔道をしている人間は、ある程度厳しく鍛えられても已むを得ないのではないか。強化費用だって出ている筈である。厳しいのが厭なら代表を辞めれば良い。悪い癖は、時には痛い思いをしないと簡単には治らない。柔道のような格闘技の選手が、そんな事で泣き言を言う様ではメダルなどには中々手が届くまい、とも思うのである。勿論、監督がどのような状況でどんな体罰を与えたのかが詳らかではないので、或いは僕は少し選手に厳しすぎるかも知れないけれど。
 親が自分の子供を虐待して死亡させてしまう事件のニュースを見ると、子供が不憫でやりきれない。と同時に、親の心理が全く理解できない。子供を裸にして水に漬けるだとか冬のベランダに放り出すとか、煙草の火を押し付ける、殴る蹴るの乱暴をして骨折させる、等々人間業とも思えない。親がまともな人格に成長していない故である。かと思うと学校の放課後、子供が転んで骨折した、一体如何してくれる、学校の監督不行き届きと学校に怒鳴り込んでくる、甚だしい例だと補償を求めて裁判沙汰にするモンスター・ペアレンツの話を聞く。子供に怪我は付き物で、骨折位で大騒ぎする事もなかろうに過保護も甚だしい、それどころか子供の怪我を飯の種にするのか、と開いた口が塞がらない。
 家庭での躾は放り出して無責任に子供を放任し、何か間違いが起これば全ては学校の責任にして教師に詰め寄る父兄の話は珍しくない。そんな親に育てられた子供がどれ程躾がされておらず、他人への思い遣りは皆無、甘やかされ放題で辛抱が足りないかは想像に難くない。それは親の愛情ではなく甘やかしであり放任であり、そんな風に育てられた子供が大人になった時には世間のルールは知らず、他人を愛する事は知らず、人格もしっかりとは形成されていない大人になる。そんな大人が今度は自分が指導者の立場になった時に、同じ様に親に甘やかされて育った生徒と対峙したらどういう事になるであろうか。勿論個々の事例ではそれぞれ事情が異なり、一概に論ずる事が乱暴なのは承知だが、今の体罰問題にはそんな根の深い問題が孕まれている様な気がしてならないのである。