baiksajaの日記

目前の一秒を大切に

 気仙沼行き (1)

 3月12日付の本ブログで書いた友人が余りにも落胆している反面、全く家族と連絡を取る手立てがないので、ついに彼の家がある気仙沼に彼を連れて行く決心をした。日曜日の昼ごろ電話をした時に彼から「現地に行きたい、居ても立ってもいられない」、と訴えられた時には、行っても何もできないし、そもそも何処にいるかも分からないのにノコノコ出掛けて行っても現場の邪魔になるだけだ、と諭した。しかしそれから色々考えて見ると、余りにも甚大な被害が為に、ニュースが潤滑に回っていないので現地踏査も意味があるかも知れないと思い直したのである。
 そこで午後4時になり、一緒に行って車の運転も僕がするから、現地で直接家族を探そうと言ったところ、彼はその積もりでもう荷物も用意したが、未だ最後の決心が付かないでいたと言う。欧州から帰ったばかりで寝不足なのである。だから、僕が一緒に行ってくれるならもう何も悩む事は無い、是非頼む、との返事であったので僕もそれで気仙沼行きを決めた。
 東北道が通れないので新潟経由、本州を山形県で横断して白石から奥羽街道に入り、一の関から気仙沼に入る事とした。ガソリンがこれ程払底しているという認識が僕には無かったので、携行缶を携帯していなかった甘さが後に祟る事になるのだが、先ずは家族をどう見付けるか、場合によってはメダンのガルーダ墜落事故ではないが遺体探しになるかも知れない、等の考えが巡りガソリンの事など考えもせずに東京を発った。途中新潟県の中条で満タンにしたが、それだけで気仙沼を往復するには足りない。そこで日曜の夕方から電気が戻った仙台で給油をする事として、雪の奥羽山脈を越えて一路仙台を目指した。白石から奥羽街道、国道4号線を北上したのだが、停電で辺りは真っ暗である。車は多いのだが周辺は漆黒の闇で、信号機も消えているから交差点も分からない。交差点を過ぎる頃になって頭上に信号機が虚ろに立っているのに気付いて、あっ、ここは交差点だったのだと気付く。輪番停電が始まった東京は車が多いから、信号が消え、周りの電気が消えて闇夜になったら交差点は本当に怖いであろう。話は飛んだが、奥羽街道はあちらこちらに段差や亀裂や沈下があり、しばしば車がジャンプする。大地震の名残を厭と言うほど思い知らせる道路の破損である。
 仙台には2時半頃に着いた。仙台市内は一部電気が戻り明るくなっていたが、コンビニもガソリンスタンドも一軒も開いていない。しかし街を見る限り、あれ程大きな地震があったとは信じられないほど整然としている。確かに外壁が崩落したビルやショーウィンドーのガラスが割れている店もあったが、大部分は外見は全く通常である。トイレを探しに駅まで歩いたら、歩道に亀裂があったり段差があったりで、初めて大きな地震があった事を実感した。駅は未だ閉まっていた。
 ガソリンスタンドに朝の2時半にもう行列が出来ていた。見れば仙台ナンバーが沢山並んでいるので、僕達もその後ろに並んで仮眠を取る事にした。ところが友人はとても眠るどころではないらしく、結局二人とも殆ど寝ない間に夜が明けた。早朝の仙台は骨の髄まで凍えるほど寒かった。夜が明けたので並んでいる人に、何時にスタンドが開くのか訊いたところ実は誰も知らずに、取り敢えず並んでみただけである事が分かった。7時になっても8時になっても従業員の姿すら見えない。これ以上時間は無駄に出来ないので、帰路途中でガス欠になるかも知れないがそうなったらなった時の事、何とかなるだろうと意を決して仙台を後にし気仙沼に直行した。
 気仙沼に近づいた処で警察が前の車を端からブロックして戻している。規制で市内には入れて貰えないかと一瞬緊張し、どうやって突破しようかと頭を巡らしたが、単なる道路規制で、気仙沼へ行く事は規制していないとの事なのでほっとした。山を越えて随分と周り道をしたが、市内に無事入る事が出来た。市内に入っても殆ど建物の被害が分からない。ガラスも割れていない。時々傾いだ家がある程度で、殆どの家は一目では全く普通に見える。ところが港に近い市役所への道路に出ると状況は一変した。未だ道路には瓦礫やボロが散乱し、大破した車が其処此処に転がっていたり積み重なっていたりする。騒然とした景観である。そこではっきりしたのは、地震の被害は軽微であり大部分の被害と犠牲者は津波によるものである事であった。写真を撮りたい誘惑はあったが、報道陣でもないのにそんな野次馬的カメラマンになる事が被災者、特に肉親を失ったかも知れない友人に対して申し訳ないようで、殆ど撮りたい写真は撮れなかった。それでもそっと撮った写真を内緒でご紹介しよう。



 市役所に行き、避難所ごとの名簿を取り合えずチェックした。それぞれ被災者自身が手書きでワラ半紙に書いたような紙を綴ったものが何冊も壁に鋲で留めてある。フォームも無ければ記載内容もまちまちで、名前もランダムに記載されているので探すのは並大抵ではない。それを安否不明の家族を捜す人々が手にとって何ページもある物を順々に見るのだから、時間も掛るし大変な作業である。しかもソーティングもしていないから、見落としのリスクも頗る大きい。友人は殆ど諦めかけたが、そこを諫めて名簿チェックを続けた処、幸運にもお姉さんの名前が見付かった。近くの中学校の体育館に避難していた。
 早速其処へ出向き、先ずは感激の対面である。それまで沈んでいた友人はすっかり勇気付き、名前が見付からない母親と妹が津波の時分に居たと思われる場所の最寄りの避難所に、お姉さんも連れて行くことになった。メイン道路は分断されているので、また山越えのバイパスを使う。地元の土地勘がなければとても分からない道である。その最寄りの避難所で、避難者の名簿を見せて貰ったが求める名前は無い。愕然としている時に係の人から何の辺りにいたのか訊かれ答えると、「その辺りでは沢山の人が見付かり、端から心臓マッサージなど蘇生術を図ったが皆さん手遅れで少し上のお寺に運ばれています」と言われ、友人は奈落の底に落とされたように落胆してしまった。
しかし、親切な係員に、近くにある村の本部に行けばしっかりした名簿が出来ているからそこでもう一度探してみたらどうかと言われ、諦め半分其処へ赴く。ところがその本部にはワープロで打った良く纏められた名簿があり、救出時の状況と現在地までしっかり記載されており、その中に件の名前が見付かった。そこに記載されている避難所に向かうと、夢のような話なのだが母親と妹がピンピンしていた。お互いに安否が分からなかったのが、いきなり一同に会した瞬間は劇的であった。はからずも涙が禁じ得なかった。