baiksajaの日記

目前の一秒を大切に

 日本人今昔

 ここの処、NHKのドラマが司馬遼太郎づいている。坂本竜馬が終わったと思ったら、今度は坂の上の雲の第二部が始まる。何れも幕末から明治に掛けての、日本の運命を背負った人々の話である。司馬遼太郎が嫌いな日本人は殆どいないと思うが、僕もご多分に漏れず随分と彼の本を読んだ。と言うか、主な小説は殆ど読みつくしていると思う。そして彼の描く幕末から明治にかけての人物像は、それが佐幕派であれ攘夷派であれ、帝国主義者であれ平和主義者であれ、ひどく魅力的に映る。所詮は司馬遼太郎の筆を通して受けた感想であるが、どうして昔の日本人はあんなに凄いのか、ふと考えた。
 先ず、社会が若者を素直に受け入れているという地盤があの時代に共通しているように思う。さらにその背景には、大人が若者を若造と決め付けずに、彼等の主張に耳を貸し、好きな様にやってみろという度量があったように思う。一方、若者の側には見栄や衒いがなく、大望を抱き、純粋に大志を育み、そこには私心が無かったように見える。自身の物欲よりも国の為、同胞の為という理想に燃えていたのではないか。
 国民もまた、臥薪嘗胆などと凡そ信じ難い標語の下に耐乏生活に耐え、国の将来を支えた。日本を取り巻く厳しい環境と言う現実もあったにせよ、現代では理解し得ない一致団結ぶりである。そこにはまた強力なリーダーシップも存在したであろうが、何と言っても大きかったのは愛国心であり郷土愛であったと思う。
 日本人と言う国民は、本質的には良くも悪くも纏まり易い民族であると思う。大勢が一つの方向に動いている時に、中々棹を差せない。自分には多少異なる意見があっても、それが大勢から外れていると発言を遠慮してしまう。僕の知る限り、欧米人には考えられない事であろう。だから、逆に言えば一つの意見に纏まり易い。集団行動が得意である。集団行動でのモラルが高い。阪神大震災で、公園の水場で誰が命令するでもないのに自然に長い長い列が出来て、混乱一つ起きない映像が流れて世界中が日本人を素晴らしい、しかし不気味な民族だと思ったのも無理はない。これ程本質的に滅私な民族は恐らく世界でも二つといないのではなかろうか。
 それらの日本人の良い処を国民全体が共有していたのが、少なくとも幕末から明治に掛けての偉人を多数輩出した背景であろうと言うのが浅学な僕の見立てである。それでは何故戦後、こういう日本人の美徳が滅びてしまったのであろうか。
 勿論敗戦のショック、それに伴う厭戦戦勝国の米国へのコンプレックスの裏返しの米国礼賛、などがあるのは自明の事である。しかし、一番の原因、責任の大半はやはり教育であり、一見インテリぶったメディアであると思う。
 先ず、左翼主義者による、厭戦気分を巧みに利用した愛国心の否定である。日教組が、新聞が、大学教授が、日の丸や君が代を否定する機運を煽ったが、何処の国に自国の国旗や国歌を否定する国があろうか。日本人が日本人としてのアイデンティティを自覚する根源は、日本と言う国体なのである。それを否定すれば日本人は依って立つ礎を失い、本来持っている資質である纏まりや愛国心が同時に消滅してしまう。
 そして西欧的な物質文明の浸透と、個の意識の過剰発達である。物質文明は否定しない。しかし物の豊かさに心を奪われ、その豊かさを求めるが為に拝金主義を信奉し、自分さえ良ければ全て良し、他人など野となれ山となれ、では国は衰える。個人の権利の主張ばかりで、個々の義務への責任感がなくなれば社会は疲弊する。今の日本を見て昔の日本のイメージと比較すると、こんな印象である。そして何よりも日本をダメにした元凶に、戦後自由になった共産党と、無垢な子供に偏向教育を施し、学力向上を怠った日教組にあると思う。戦後60年経った今こそ、未曾有の不景気とモラルの崩壊を国体の危機としてしっかり認識し、もう一度我が国の在るべき姿のコンセンサスを創り上げ、国民が共通の目標に向かって努力する必要があるように思えてならない。