baiksajaの日記

目前の一秒を大切に

 大塚モスク

 ちょっと用があって大塚モスクへ行って来た。モスクというのはイスラム教の礼拝所である。東京では代々木上原にある、トルコ政府が中心になって作った東京モスクという、大きくて立派なモスクが圧倒的に見栄えが良くて有名である。それ以外で名前が通っているのはこの大塚モスクぐらいである。他にも小さなモスクはあるのかも知れないし、大使館に併設されているモスクならイスラムが盛んな国の大使館なら必ずあると思う。
 小笠原流ではないが、モスクに入る時には礼儀があるらしい。何かを唱えながら入る時は右足から、出る時は左足からと聞いた事がある。でも正確には知らないから、そんな事は考えずにいい加減に入っていい加減に出て来てしまったた。大体どこが入口の敷居かも良く分からない。でもイスラム教の良いところは、他人の事には干渉しないから、出鱈目でも何でも誰にも文句は言われない。タブーの事だけやらなければ良いのである。もっとも僕は何がタブーかすらも知らないのだが、常識的に振舞っていれば大丈夫のようである。恐らく、中で酒盛りをしたらつまみ出されると思う。
 行ってみれば小さなモスクである。貸しビルかマンションを借りているような趣で、東京モスクとは月とスッポンの差がある。靴を脱いで中に入ると、礼拝所の片隅では小学生ぐらいの男の子が二人、クルアンの勉強をしていた。昔日本の寺子屋論語を読んだのは斯くありなんという様子で、大きな声でクルアンを暗唱している。先生は白いイスラム帽に白い長衣を着た髭もじゃの男である。見るからに人相の悪い、アフガニスタンタリバンの如き風貌である。こういう人が出入りするから、日本人の目には奇異に映るのであろう。しかし暫く見ていれば、見掛けほど悪い人でもなさそうである。
 僕は礼拝の呼び掛けである「アザーン」を聞くのが好きである。何とも言えぬ張りのある声で、朗々と謳い上げるような呼び掛けが耳に心地よいのである。勿論テレビなどで流す上手い人の話で、地元のモスクのスピーカーから流れて来る破鐘の様なアザーンは必ずしもこの限りではない。ところが子供達の暗唱するクルアンが、上手なアザーンの様に耳に心地よい。もともとクルアンはアラビア語で韻を踏んで書かれているので翻訳が出来ない、無理に翻訳をしてもその素晴らしさの大部分が損なわれてしまうと言う様な事をクルアンを翻訳した井筒俊彦がその「まえがき」に書いていたが、その言わんとするところが良く理解出来た。子供ながら、謡のように朗々と謳い上げるアラビア語が何とも耳触りが良いのである。
 そこで暫く待たされていると、次から次へと人が入って来る。中には日本人もいるが大部分は外国人である。勝手に身体を清めて、勝手にお祈りをして、勝手に帰って行く。そこでは余り話も交わさない。子供連れの父親もいる。勿論男女は分けられているから、女性は子供に到るまで一人も見掛けない。僕が座っていても、誰も気にも留めない。牧師のような聖職者は一切いないから、みんなテンデンバラバラに勝手に来て、好きにお祈りをして勝手に帰って行く。イスラム教の真骨頂、聖職者がいない、信仰はアラーと個人との一対一の関係なので誰にも気兼ねしないし邪魔もさせない、と言う事を目の当たりにした。もっともキリスト教の教会でも、日曜日でなければ人々は勝手に入って来て勝手に跪いて勝手に帰って行く。やはり同じ根っこの宗教なのである。
 事前にネットで調べた時には、テロリストが出入りしているので公安が見張っているとか、あざといパキスタン人がやっているモスクで寄付金が蒸発している、とか色々と日本人が悪い書き込みをしていたので行く事に少し躊躇いもあったのだが、用があったので足取りも重く出掛けたものである。しかし、そんなとんでもない印象ではなかった。一度行っただけだから本当の所は知る由はなく、沢山見た訳でもないのだが、出入りしている人達や世話をしているパキスタン人がそれほど悪漢には見えなかった。むしろごく普通の敬虔な人達に見えたものである。それにしても、彼等がお祈りをしている横で異教徒がジロジロ眺めていても、別に気にも留めずに黙々とお祈りをしていた。公安も、本当に見張っているのなら、中で堂々と座っている方が余程楽であろうと思った。