baiksajaの日記

目前の一秒を大切に

 インシャアッラー

 本を読んでいたら「インシャアッラー」という言葉が出て来て、突然色々な出来事を思い出した。この言葉はイスラム教徒が好んで使う、「神の思し召しのままに」とか「神のお導きがあれば」とか、要するにアッラーがそうさせてくれたら、と言う意味の言葉である。
 僕は最初に赴任したイスラムの地はバングラデシュ、それも当時は世界でも最貧の国であった。そこで初めてこの言葉を頻繁に聞く事になる。客先と何か約束をすると、最後にこの言葉が付け足される。現地スタッフに明日の何時までにこの仕事を上げてくれ、と指示すると「はい。神の思し召しがあれば」と言う返事が返ってくる。40年前の、未だ若かった僕にはこの言葉は初めから責任を放棄していると思えて腹が立ち、時にはスタッフなどには本気で「そんな逃げ口上を言うな、俺はお前のコミットを求めているのである」と怒鳴ったりもした。当時の僕の理解は、今でも一般の日本人の平均的な受け止め方だと思う。
 その後10年間は世界各国を飛び回ったが、どういう訳か駐在地はイスラムの国になる。次の駐在地のインドネシアでも、この言葉を頻繁に聞く事になる。インドネシアでは仕事は中国系の人との付き合いが多く中国系の人間には殆どムスリムはいないので、客からこの言葉を聞くことは少なかったが、それでもマレー系の客や、特に現地スタッフからは頻繁に聞かされた。たとえば約束の時間である。明日の朝10時に何処其処で、等と言う約束をすると合意と共にこの言葉が返ってくる。バングラデシュの時に比べれば大分歳も重ね、人間も円くなってはいたが、やはり逃げ口上に思えて気分が悪かった。しかも大体相手は遅れて来るから尚の事、初めから逃げを打たれたと腹が立った。
 しかし、インドネシアには元々ジャムカレット(ゴム時計)と言う言葉がある位昔は時間にルーズであった。ゴム時計と言うのは何もゼンマイの代わりにゴムを使っている時計と言う意味ではなく、時間がゴムの様に延びたり縮んだりする人の事を揶揄する言葉である。そんな言葉がある位、当時は時間にルーズなのは普通であって、決して初めから予防線を張っていたのではない、と言う事が理解できるようになったのは少し時間が経ってからであった。余談だが、そんなインドネシアも最近は時間が正確になり、特にジャカルタでは約束の時間に遅れるとこちらが恥ずかしい思いをする事になる。四半世紀前とは隔世の感である。
 イスラム教では、この世の全ての出来事は全能の神が司っている。全能の神に比べれば人間の存在など吹けば飛ぶようなものである。勿論、約束をしたら努力はしなければならないが、最後は神がそうさせてくれれば成し遂げられるし、神の意志に反している事であれば自分にはどうしようも出来ない。つまり、インシャアッラーと言うのは、神の全能を崇める言葉であって、予防線ではないのである。
 とは言いながらも、日本人の感覚にも分かり易い使い方もある。少なくともインドネシアでは、人から難しい頼み事をされても決してストレートには断らない。「分かりました、努力してみます、インシャアッラー」と受け流す。横から聞いていると、何処まで本気でやる気なのか分からない、恐らくは外交辞令でそうは言っているが余り真剣にやる気はないな、と思われる事がままある。しかし相手は、アッラーの思し召しがなければ出来る筈もないから、宜しくお願いしますと納得の表情をする。インシャアッラーで何となく双方が納得してしまうのである。ただ多少善意に解釈すれば、引き受ける方も神の思し召しがあれば手助けするチャンスが来るから、その時には本気で努力しましょうと言う意思は持っているのである。
 インシャアッラー、若い頃は他力本願で無責任な言い逃れ、と受け容れ難い言葉であったが、ムスリムと長く付き合っていると決してそういう意味ではなく、自分は全力を尽くします、その結果アッラーの思し召しがあれば必ず出来ます、と言う風に受け取れる様になった。預言者ムハンマドは、「人間は生来弱い者だからイスラム教のどんな教えにも背く時はあろうが、絶対にしてはならない、人を騙したり約束を反古にする者は地獄に堕ちる」と言っているから、本気で嘘をつくムスリムは余り居ない筈である。バングラデシュにいた若い頃は随分現地の人に、訳の分からない失礼を言ったものだと今になって少し反省している。