baiksajaの日記

目前の一秒を大切に

 大学の講義

 先週、この秋に講義をする大学の授業が始まったので、先輩講師に頼んで講義のさわりだけ聴講させて貰った。目的は学生の様子を観察するのと、何と言っても講義の雰囲気を肌で感じる事であった。
 講義の始まる少し前に、大教室の真中辺に座っていると次から次へと学生が入って来た。学生の恰好は、ズリ下がったズボンの腰から下着が見えている子や、ホットパンツで闊歩する娘やら、まるでアメリカの映画を観ている様である。鎖をジャラジャラさせている子もいる。半分ぐらいの学生は飲み物のペットボトルを手に教室に入って来る。そして何の臆面もなく机に飲み物を置く。
 僕の学生時代と根本的に違うのは、事務の職員が最初の15分程教室に張り付いていて、飲み物は片付けさせる、机の上の鞄はしまわせる、講師が準備した資料を取らない子には資料がある事を告げ、後ろに座ろうとする子には前の席に移動させる。まるで手取り足取りの気の遣い様なのである。外部講師のせいもあろうが、それにしてもここまでしないと学生任せでは授業にならないのであろうか。一体子供たちは家で親から何を躾けられているのであろうか。
 講義が始まるや露骨に寝る子などはまだ増しで、事務員が退出するやいなや、講師の講義などどこ吹く風、突然立ち上がって悠々と教室の後ろに歩く子がいるので何事かと見つめていたら、教室のうしろにあるコンセントに携帯の充電器を繋いで、また悠然と自席に戻って来るのであった。講師は淡々と講義を続けていたが、僕なら切れてしまうかもしれない。何しろ日頃から、電車やターミナルの混雑の中で傍には脇目も振らずに、人の流れに逆らって携帯に夢中な、傍迷惑この上ない輩に腸が煮えくり返っている僕である。
 彼らはゆとり教育の落とし子でもある。偶々テレビを見ていて知ったのだが、ゆとり教育を受けた子等は円周率は3と教えられていたと聞いて唖然とした。円周率が3では、無理数の概念など分かる筈もない。僕は中学の時に少数以下19桁まで覚えたが、それは無意味だとしても3.14は常識だと思っていた。そして今の子に学力テストをすれば、知識はあってもその知識の演繹が苦手なのだそうである。やはり若いうちに、ある程度は詰め込み、無理矢理でも自分で考えないとテストが通らない地獄を味わわせないと人間は成長しないのだと思う。ゆとりも基礎がある人には良いが、基礎も無いのにゆとりなどあり得ないのである。
 大学の講義に多くを期待するのは諦めたが、それでも僕なりに若い世代に伝えたい事は沢山ある。だから大学の様な場で講義をしたいと思っていた。折角その希望が適ったのだから、それが何人の学生に伝わるかは極めて覚束なくなって来たが、新しい知識を吸収したい学生の琴線に触れれば善しとする講義に徹する事にした。