baiksajaの日記

目前の一秒を大切に

 お盆休み

 お盆休みは蓼科で避暑していた。蓼科に大きなヴィラを持つ知人に誘われ、13日から今日まで泊めて貰ったのである。蓼科でも比較的高地にあるのでこの猛暑でも朝晩は15-16℃で、昼間でも30℃よりは大分低いから、東京に比べたら天国である。朝は鹿の親子が現れ、昼間には猿が出没する緑濃い地域である。唯一の難は、ヴィラへのアプローチが砂利道で、僕のオンロードバイクでは本当に薄氷を踏む思いの出入りを強いられる事だけであった。
 14日は久しぶりに白川郷へ行こうと思い立ち、9時ごろ出発したのだが、お盆の真っ最中で関東や中部からの車が麓の茅野市一帯に溢れていて、普段なら30分程度の諏訪ICに着くまでに1時間以上掛かり、中央道も流れてはいたけれども車が数珠繋ぎ、松本から高山へ向かう道はもう大渋滞で、折からの猛暑で精も根も尽き果てて、沢渡温泉でバイクを乗り捨て上高地へバスで上った。上高地は何度も下を走り抜けているけれども、実は未だに一度も上がった事がないので、神の与え給うた機会と試みたものである。しかし上がって見れば上も人が溢れ返っていてとても散歩する気分にはならない。食堂も長蛇の列であったが、仕方がなく名前を書いて列に並び昼食だけは上高地で摂ったものの、それ以上散策する気にもならない。戻りのバスに乗ろうと思ったら沢渡行きのバスは2時間待ちの有様で、仕方なくタクシーで帰る羽目に陥った。幸い早目に下りたので帰りは松本の新村での渋滞以外は比較的スムーズだったので、これも今まで通り過ぎる事しかなかった松本城へ立ち寄った。ただ折からの猛暑で、松本城ではすっかり茹で上がってしまった。

           上高地梓川

               松本城
 15日は昼間は他用もあり、午後も遅くなってから299号で麦草峠を越え佐久に出、141号を北上して帰りは蓼科スカイライン白樺湖経由蓼科に戻った。往復とも殆ど車もおらず、特に蓼科スカイラインでは対向車が2-3台あった程度で殆ど貸し切りサーキットだったので、久しぶりに思い切りスポーツライディングを楽しむ事が出来た。
 16日には友人を誘い、車で黒四ダムに行った。僕は未だ黒四ダムには行ったことがなく、前から一度行ってみたいと思っていたのだが、東京から日帰りするには少し苦しいし、かと言ってわざわざ泊りがけで行く程の興味もなかったので、今回は絶好のチャンスだったのである。快晴の黒四ダムは聞くしに勝る大迫力で、正面に立山連峰を眺めながら、観光用かどうかは分からないが豪快な放水は一見の価値があった。混んではいたが何とか待たずにトロリーバスにも乗れ、もっともバスの中は東京の朝のラッシュ並みの混雑であったが、大いに堪能する事が出来た。

        (豪快なダムからの放水)

       (ダムから遠望する北アルプス
 17日には15日に行きそびれた白川郷を目指し、6時前にヴィラを出た。流石に早朝は車も少なく、余りに快適で順調なツーリングなので目的地を欲張って、先ず木曽を目指した。木曽は奈良井宿に7時には着き、未だ店開きもしておらず観光客もいない古い街道をゆっくり散策し、古い街並みを改めて堪能した。

         (早朝の閑散とした街並み)
 次は高山の南を走り抜け、中部縦貫道の支線から高速に入り白川郷を目指した。休日は白川郷は酷く混むと聞いていたが、それ程の事はなく無事に白川郷に着いた。しかし、村営駐車場に入る車の待ち行列が大変な物で、直射日光の灼熱と股下の大型ヒーターに上下から炙られて、もうどうにも我慢がならなくなり右側車線を逆走して列の先頭に出、係員に訊いたらバイクの駐車場は未だ入れるとのご宣託。そのまま車列の左側を走って良いとの指示を受け、やっと炎熱地獄から解放された。白川郷には既に何度か行っているので特段目新しい事もなかったが、ここも観光客で溢れかえっていた。中国語が其処彼処から聞こえてきた。

          白川郷の合掌造り)
 余りの暑さに白川郷は早々に切り上げ、158号で高山を目指した。本当は361号で古川経由で行きたかったのだが、白川郷を出る処で道を間違え158号に入ってしまったのである。高山では飛騨牛万を食べ、マンゴーミルクのフラッペを食べて旧街道を散策した。レトロな店が並んでおり、観光地とは言え中々の趣向で、何時も目を楽しませて貰う街である。

          (高山の旧市街で)
 高山からの帰りは車は多かったが松本まではまあまあの流れであった。松本の新村の渋滞は相変わらずで、今後は278号経由で梓川へ出ようと思う。15日、17日と二度までの大渋滞にはもうこりごりである。
 最終日の今日は南諏訪ICから帰途に付く前に、以前から気になっていた尖石遺跡に立ち寄った。縄文のヴィーナスと呼ばれる国宝の土偶が出土した遺跡で、周囲には石器を研いだ尖石や縄文時代の竪穴式住居跡が多数発見され、土器や石器も多数出土している遺跡である。4000年ー5000年前に多数の日本人の祖先が集落を作っていたらしい。当時の衣服を再現したマネキンも展示されているが、現代にも通じるスタイルの服で、貝殻のアクセサリーや石の耳飾りなどを身に付け、中々のお洒落であったらしい。

     (復元された縄文時代の竪穴式住居跡)
 遺跡を見学して帰途に付いたが、未だ午前中なので渋滞はないと想定したのが甘く、既に小仏トンネルでは10㎞の渋滞になっており、擦り抜けに大分エネルギーを消耗してしまった。この6日間の走行距離は、正確ではないが1400㎞程であった。愛車はこの間にオドメーターがやっと1万㎞を突破した。